- 作品番号
- 19007
- 作者
- 作品名
- 三月廿一日付安威了佐宛消息
- 作品詳細
「明石郡内多聞寺分
内より七十三石小笠原
左大夫江相渡残而
三百石令扶持畢
山林共一職ニ可有全
領知状如件筑前守
三月廿一日 秀吉(花押)安威五左衛門尉殿
(明石郡内、多聞寺分内より七十三石、
小笠原左大夫へ相渡し、残りて三百石、扶持せしめ畢(おわ)んぬ。
山林とも一(いっ)職(しき)に全く領知あるべき状、件の如し。)」紙本 箱入 39×14.5 49×106cm
- 略歴
【豊臣秀吉】
安土桃山期の武将。尾張中村生。幼名は日吉丸。初名は木下藤吉郎。織田信長に仕官し、戦功をたてて名を羽柴秀吉と改めた。信長の死後、「中国大返し」により京へと戻って山崎の戦で明智光秀を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一、太閤に至った。太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの政策により幕藩体制の基礎を作った。明国征服を志して朝鮮へ出兵するも、その最中の慶長3年(1598)病没、63歳。茶の湯など文化活動も盛んに行い、桃山文化を開花させた。【安威了佐】
安土桃山~江戸前期の武士。豊臣秀吉の右筆を務めた。通称は摂津守、五左衛門。洗礼名はシモン(志門)。天正12(1584)年頃キリスト教に改宗。同14年、イエズス会準管区長コエリョの大坂城訪問時に接待役を務め、秀吉との会見の仲立ちをした。生没年不詳。- 価格(日本円)
- 売約済
- Item number
- 19007
- Artist
- Title
- Letter
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- ink on paper
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